私が小学生の頃であろうか、国語の教科書の何かの作品に『常世の虫』という単語があった記憶がある。誰の、どんな題だったかも覚えていないのだが、とにかくこの言葉、単語だけ覚えており、後に荒俣宏の『怪物の友』(集英社文庫)にその項を見た時、「ああこのことか!」と思い出した経験があるので小学生の教科書のどこかに乗っていたことだけは確かなのである。 ―『常世』 この言葉は以前書いた熊野に通じるところがある、黄泉の国である。古代日本からあるとされた理想郷であり死の国であり神の国である。少彦名神(スクナヒコナノカミ)という光り輝く小さき神がはるか彼方の海上の国『常世の国』からやってきて大国主命とともに国を巡回し国造りをしていくという神話がある。国の創世神話である。彼は様々な機知に富み、力と知恵と技術とを併せ持つユーモラスな神である。国造りを終えた彼はまた光の国、常世の国へと帰っていく。― 巡礼の項で再三書いて来た『異人』『彷徨者』の原型ともいえるかもしれない。かつて日本の民が来訪者に対して抱いた畏怖はここに源流があるのだと思う。 異界からの異人、来訪者。彼は新しいモノをもたらし、時に富を、時に災厄をもたらす畏怖すべき恐れ多い対象である。 彼は巡礼する神である。 巡礼にはいくつかある。 1.神の巡礼 2.修験者の巡礼 3.民の巡礼(彷徨民・芸能民) 4.贖罪の巡礼etc・・・ 最も古く想定されるのが1.神の巡礼である。それより下はそれにあやかった模倣といえる。 いや、もちろん独自に現れたともいえようが、ご利益の道をたどるための巡礼であることには違いあるまい。人は巡礼をするが、その目的は何かを赦してもらい、何かを祈願し、再生するために戻ってくる、帰還するシステムであり、その祈りの対象は神(カミ)だからである。 (この場合神というのはあくまで「カミ」であり神仏にとどまらない。) さて、熊野が正と負、生と死の両義的な国であることは前記の通りであるが常世の国はこれに加えて、生成のカオスの国、あらゆるものの源泉が存在する国である。 光り輝く小さき神は、その光の帝国<常世の国>からやってきて、国を造り人間にあらゆるものを伝授し、帰還した。 これを下敷きに 恩田陸『光の帝国 常野物語』をすすめて行きたい。 光の帝国―常野物語
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