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zoom RSS 『変容』 by 伊藤整

<<   作成日時 : 2005/09/18 00:22   >>

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老年期、60を前にした老人が主人公であるこの小説を、まだ20代である私が読んで感想を書く、というのもおこがましいが、それでも大いに感じるところがあった。近年、老人のお見合いとか、老人同士のデートだとか、熟年結婚だとか、そういった老年期を迎えたお年寄りのカップルが誕生している、またそういう動きを支援する企業などがあるという。親がいて、子がいて、さらにその子は父母となり、その親は祖父母となる。当たり前のことだが誰もが追いを迎え年をとるに従って夫婦は死別する。残された人生を子や孫と暮らすか、1人で暮らすか、もしくは老人ホームや病院で暮らすか、それはその家その人それぞれのことと思う。そうした老人を目の前にして、私を含め孫世代は「おじいちゃん、おばあちゃん」というモチーフを貼り付けていて何か卓越した、どこか人間離れしたそん時と認識しているのではないかと思う。大袈裟かもしれないが、世代の違い、生きている空間、感覚、時間すべてが違う時限に生きる老人に対して別の生物のような感覚をもっている。ただしこれは悪い意味ではなく、あくまで先のような『卓越した』、憤慨することもなく漫然とかまえ、自然にそこにいるという悠久の時間を持っているような尊敬の意味である。あわただしく日々をすごす自分たちとは別のところに生きる、超然としたものを感じている、そういう意味である。
さらにその祖父母の子供、つまり私たちの親世代はどうか。親という存在は常に自分たちを生み育て見守り続けた「頭の上がらない」人物である。もちろんこれもその家庭それぞれだ、ことに家族崩壊が叫ばれるこのご時世では。しかしそれでも「親」というものは「世間に恥ずかしくない立派な人物」であることを願ってやまないのが人の子の心情だろう。小さい頃友達に自慢し合う光景、「うちの父さんは○○なんだぞ!すごいだろう?」といったその言葉は「親にはこうあって欲しい」という永遠の理想なのだと思うのだ。それはいくつになってもおそらく変わらない。親は死ぬまで親でいて欲しい。そういうことだ。
さてここで問題になってくるのが、当の祖父母、老年期を迎えた老人たちの一個人、1人の人間としての心情である。
この「変容」では主人公は男性であるから、色恋ごとには(閉経を迎えてしまう女性と比べると)身体的にも死ぬまで元気である。とはいえ大抵は私たちが昔話から植え付けられるような穏やかな「おじいさん」になるものなのであろうが、実際はそうでもないのかと、この小説と近年流行りだしたというその熟年カップルの誕生を知るにつけ思いなおした。
老人が一人身になり、似た境遇の異性との出会いを見つけもう一度色に花を咲かせる。そこまでは言わずともいい関係の「お付き合い」をする。中には60を過ぎて「新婚さん」になる熟年夫婦も生まれる。恋する情熱は若人だけのものではなく命尽きるまで求めてやまないものなのだと、人を恋しく思うのは愛することは期限がないのだと思い知らされた。そしてこの「変容」は、そうしたキレイな言葉だけではなく性的な意味も含めていやそれこそを中心に、いわゆる「性の快楽の追求」を永遠のものであるとした、老人の物語である。かの主人公は60を迎える老人でありながらまだまだ元気に性欲を発揮している。彼をとりまく女性たちを見ていると、まるでこれは「源氏物語」だと感じた。まず藤壺に青年期に憧れた親友の姉「前山夫人」がおり、その他多くの女性が「歌子」「千子」ほか連ね、しまいに歌子の娘「柾子」を養女に迎えるあたりは紫の上を思い起こさせる。私は作者が源氏物語を下敷きにしたといいたいわけではない、そうではなくて人間のこうした色恋、人を愛し性交を重ね又子を育て上げたいとするその情熱は時代が変わろうと人間が変わろうと、なんら変わることはない本能なのだということである。彼は柾子を養女に迎える際、やましい影が心にないかと自分を顧みる。源氏が紫の上を終に自分の女としてしまったように愛人である歌子の娘をそう育ててしまいたい衝動がないとは言い切れない、そんな人間臭さが私は好きだ。
またこの物語のクライマックスである藤壺こと「前山夫人」の死を見取り、その娘「章子」を目の前にして彼はまた思いをぶつけるのである。愛した人の死を目前にその娘とキスをしてを伸ばしたその行為は、一般的に「けしからん」行為だろう。けれど彼はそれを潔く認めむしろ悪ではなく善だと、生の輝きだと賞している。
「老齢の好色といわれているものこそ、残った命への抑圧の排除の願いなのであり、また命への賛歌である。」と。
亡き愛する人への思い、亡き母への思い、そうした男女二人の二つの心が「前山夫人」という一つの同じ方向に向いた時、つまり「男女が同じ方向に傾いた心を持つ時、二人は性をきっかけにして結びつく」のだという。
この出来事を旋律的な出来事であろうと、つまり世間的には不埒な出来事だと認識していながら、若かったなら逃げ出すほどの後悔をしたであろうと感じながらも、今老年の彼は取り乱さず、充足感すら抱いている。「自分のしたことを自然現象と同じように寛大にゆるしながら、物静かに落ち着いてその場面から立ち退くことに、私は人間の熟成というものを感ずる。」という。
私はこうした行為を賞賛は出来ない。それでもこれを読んだとき、ああそういうもおあのかと理解した。彼の性交も、色恋沙汰も、生きていることの証拠なのだ。生きている限り人は押し合いひしめき合い、近づいたり逃げたりしながら人生を交わしていく、その濁流の中でほんのひと時でも同じ方向に魂が向いた時、女と男であるならばそれは「性」というもので愛が今生きているということが具現化するのだと、そう思う。
私たち若人の目に映る老人は性や恋愛といった色恋沙汰からはかけ離れた卓越した存在に見えるかもしれない。死を目前にした弱々しい、清廉潔白なむしろ赤ん坊のような無邪気な存在に思えるかもしれない。世の中のあらゆる経験をし、道徳に従った正しい生き方を熟知している、熟練者と考えるかもしれない。しかしこの作品は、私に老人がそういった超人ではないということ、彼らもまた人間臭い、まだ力強い生命の輝きを持っているのだということを掲示してくれた。むしろ逆に、私たち若い世代の者も、また父や母も、この決まりきった道徳律や世間体、取り巻く人々環境との協調性という抑制装置の中で、欲望や感情を押し殺し息を潜めて生きている人々が多いのではないかと問うているように思う。人の間で生きている以上、何か事が起こればそれを1人受け止め、胸のうちに隠し、人目を憚って己の心の中に秘す覚悟が、かの主人公には出来ているのである。秘し事を、様々な『取り返しのつかぬ事』を秘し背負い生きていく寛容な覚悟を彼は持っているのだ。性は、愛は、燃え上がるような感情は、若者だけの特権かと思われるその常識に真っ向から反論するこの主人公に、著者に、心からエールを送りたい。
変容
変容 (岩波文庫)

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