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zoom RSS 『フランダースの犬』より ネロを救わないキリストさまへ

<<   作成日時 : 2005/09/27 01:45   >>

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ネロ、なんて不吉な名前をこの作者はつけたのだろうと最初思った。かの暴君ローマ皇帝ネロと同じだからだ。もちろんローマ字での綴りは「Nello」と「Nero」全く違うのでお間違いのないよう。
それにしてもこの物語がなぜこういう結末になる必要があるのか、長年の謎であった。『マッチ売りの少女』もそうだ。なぜ敬虔な、純粋で優しい『良い子』が散々な目にあった挙句死なねばならないのか。神は彼らを生きている間に救うことはせず、死んだ後「天に召される」すなわち神の国に導かれるという形でしか救わない。何故か?
先の『コロビマス』書評でも書いたことだが、デウス(キリスト教の神)は死を全うすることを、死ぬまで神を信じ続けることを信仰とし、この世の苦しみは死後神の国での幸福となり、彼らには永遠の命を約束するという。
これに対して仏教は今生の苦しみは前世での苦しみ、来世でのよりよい転生(再生)へと結びつくという輪廻を説く。この世での幸福を諦め神の国での幸せを胸に今を耐える前者と、次の『この世』すなわち来世での幸福のために今生の苦しみを因果として受け止める後者と、全く逆である。
話をいったんフランダースの犬に戻そう。
なぜ神はネロを、犬をこの世で救わなかったのか?彼らに何の落ち度・罪があったのか?
この謎は『コロビマス』『沈黙』にも通じる…飢えで、病気で、迫害で死ぬ敬虔な信者たちがなぜ神の沈黙の前に死なねばならかったのか。ひいてはなぜキリストは磔刑にて救われなかったのかということにも通じる。
私はキリスト教徒でもないし信じてもいない。が、私なりに一つの結論を得た、と思う。
ネロも、キリストも、かの宣教師も、皆救われることを前提に信じていたからである。
以前、(これは仏教学の講義で聞いた話なのだが)『信じる』ということ、『信』ということは私たちが日常使っている信用とか信頼とか、そういった『信』とは全く種を異にする、というものである。
何の見返りもなしの、無償の信仰。その心があらゆるものの根底にあり・・・。ということだった。
すると・・・。救われるから信じるのではない、永遠の命が授かれるから信仰するのではない。
神という対象がありそれに向けて『信じる』というのは真の信ではないのではないかと思う。
何も十字架上のキリストをはじめデウス神を疑った彼らが信仰心に薄いということではない。
だが、信仰するという名のもとに、神という救いの手をそこに求め見返りを求めた彼らが真の信を持っているとは私には思えない。
キリストの言う神の国、永遠の命、そういったものを信じ求めること自体が見返りを求める虚偽の信仰に思えて仕方が無い。
ネロは確かに純粋無垢で貧相にも耐え多くを望まぬ敬虔者かもしれなかったが、彼はいつか画家になるという夢も、いつかみんなが分かってくれるという期待も捨てなかった。
キリストは最後まで、父=神が自分を救ってくれると信じて疑わなかった。(なぜ見捨てたのか?という彼の問いは、逆を言えば救ってくれるはずだったのに、というようにもとれるからだ)
私の好きな言葉に『無一物』というのがある。禅の言葉だ。
―万物は実体でなく空にすぎないのだから、執着すべき対象は何一つないということ(大辞林)
何物にもとらわれず無我の境地に至れという教えである。これをトコトン実行すると仏教そのもの、仏にすら執着するなということになる。ここに仏教の偉大さを感じたものだ。
私は仏教が宗教でない、とは言わない。しかしこうして、説経の中には人間の生きるための方便、在り方その方法だけをただ示してくれる方便に思われ、いっそその方がずっと純粋に心に残る。
もちろん日本の仏教史の多くは仏を崇め、師を仰げと言っているしその点ではキリスト教と大差ないとは思う。ここで述べたのはあくまで私の中の仏教説法の、一つの解釈だ。
私にとって宗教は必要ない。ただ「カミ」は在る。それはキリストでもデウスでも仏でもアマテラスでもない。ただただそこに在る者・物・この世に存在する物事一切諸物がそこに存在させることができる法則、その力、原理のようなもの。それを全てカミと私は呼んでいる。
1+1=2という計算も、人が生まれ人が死ぬまでの細胞や組織も、黄金率も何もかも。
あらゆるものを成り立たせる法則・決まりごとが私にとっての万物でありカミだ。
だから私はカミになにも求めない。
・・・とまあ、こんなふうに私の中で片付けてしまったが、こういうことは賛否両論。こういう考えもあると思っていただければ幸いである。

フランダースの犬―A dog of Flanders
フランダースの犬―A dog of Flanders 【講談社英語文庫】

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日記風雑読書きなぐり
2005/09/27 16:37

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コメント(5件)

内 容 ニックネーム/日時
そのカミの考え方すごく共感できます。
自分も昔神について考えたとき似たような結論にいたりました。
偶像化できるようなものでなくただ在るもの。
全ての法則が形作られる基の基。
全知全能だけど零知零能。
わたしの細胞の全ての一桁単位の正確な数すらも知っているもの。
なんてのがわたしの考えるカミです。まあだいたい空蝉さんと一緒です。
こんなこと考えてる人他にもいるんだな〜って驚きました(^^
菊七
2005/09/27 10:14
コメント再びくださり有難うございました。
こちらこそ、菊七さんが考える「カミ」論と似ている…というのはおこがましいかもしれませんが、嬉しいです。こういう話は尽きないので話し出すと止まりません(笑)またいらっしゃってください、もう少し書いていくつもりですのでコメントくださると嬉しいです。
空蝉
2005/09/27 12:48
>ただただそこに在る者・物・この世に存在する物事一切諸物がそこに存在させることができる法則、その力、原理のようなもの。それを全てカミと私は呼んでいる。
1+1=2とわかった。それが「わたしのカミだ」
私もそれはわかる。
問題はそれが人間の生き方に何を教えるのかでしょうね。たとえば法則を知って限りなく効率的な人間社会を形成する、文明発展の歴史がそこにありますね。
老荘思想でいう「道」にちかい原理とも言えるでしょう。老子、荘子はもちろん「道があります」にとどまらずに生き方を教えています。この「道」に身を委ねて生きる=無為=人為を拒否する、ここに人間の生きる至高をみいだすのですね。もっともこれは文明発展を道に外れた行為とします。
そしてこれは宗教ではなく哲学でしょう。
「禅」も老荘思想に近いかなり哲学的宗教だと思います。
さらに「ネロは救われたのか」の答えにはなっていませんね。
よっちゃん
2005/09/27 16:00
宗教と哲学の違いはなんでしょうか。
私は死後の世界を前提にしているかいないかだと思います。
死後の世界など念頭にない私が理解できない最大のところは死後の世界を前提にして「救済」と結びつける、つまり神を信ずる人々、これが世界人口の圧倒的多数をしめるわけですが、その存在そのものの現実的パワーの不思議さです。
「ネロは飢えと寒さで死んだんだ、とてもかわいそうだ。でも安らかな死だったんだ。神を信じていたから」と私は解釈的にとらえるわけですが、キリスト者は神の救済を実感するのでしょうね。
「ネロ問題」は平和的ですが「イスラム者対キリスト者」の戦闘ともなりますと宗教はいやですね。
よっちゃん
2005/09/27 16:13
説明不足でもうしわけありません。ただ私が法則=カミといったのは決して法則を知る=神を知るということではありません。私が言うカミは宗教的な神ではありませんし、この世の中を成り立たせている構造そのもの、原理みたいなことを言いたいのですが…言葉が足りませんね、申し訳ないです。法則は知ることが出来るしそれを『利用』することも出来るでしょう、けれど『発展』させることも捻じ曲げることも出来ないと思います。
そしてネロが救われたかどうかですが、この物語が「天に召された」ということで締めくくられているのですから、これは100%救われたとしか言いようがありません。それが大前提の物語ですから。ブログの題名はあくまでも言葉の綾というか、なぜ死ななければならなかったのかという意味です。それこそ「沈黙」に通じる疑問点ですね。
それに対する答えはブログに上げたとおり。単純に言うと、救われることを前提とした「信」は虚偽だということ、ネロは最後には信じきって死を迎え入れたのだから幸福(救われた)のだと、この物語を初め殉教の物語は史実以上に後世のもののためにあるテキストであると思います。
空蝉
2005/09/27 18:19

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