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zoom RSS 『子供たちは夜と遊ぶ』 by 辻村深月

<<   作成日時 : 2006/08/01 21:26   >>

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まず、同年代の女性の作品ということが嬉しく、同時にもう少し高尚な文体・・・というか
固めの説明なり描写なり心情描写があってもいいのでは?と思った。
が、これは『子供たち』の物語。これで、良いのだと素直に感じられた。

結局は自己防衛の、世界という非常な化け物から自分という非力な存在を必至に守ろうとする「逃避」と「保守」によって引き起こされた悲劇の物語だ。
彼・・・浅葱は決定的な絶望と失望を世界に感じ、『独り』という恐怖を知り、
常に「伴侶」を求めた・・・がどこにもいない自分だけの世界で、まずカレを作り出す。
カレが暴走し浅葱をのっとり、殺人を繰り返す・・・というのならどこかであったような物語だ。
 けれどコレは違う。
浅葱と「i」。 彼らはそれぞれ「存在」し、お互いをのっとるのではない・・・必死に生きて欲しいと、人間として生きて欲しいと、それこそ命を懸けてゲームを、夜を遊んだのだ。
何度も交錯する「浅葱」と「i」。 彼らはお互いがいなくてはいけない存在だったけれど、
決して「出会っては」いけない存在だ。しかも「浅葱」は・・・(いや、正確にはiか?)は自分の背中の火傷に気がつかない。iの本当の姿、iの、自分の負ってきた過去にも気がつかない。
それはちょうど「姑獲鳥の夏」(by京極夏彦)を連想した。
人間の知覚と記憶の都合よさ。 それが、キーと成る。

浅葱は本気で気がつかないフリをし、iを手に入れた。
月子は記憶に蓋をすることで安穏を手に入れた。

それでも人間は、触れたくても触れられないものを、いとおしくて仕様がないものを、
必死に守りたくて、時には必死に逃げるのだと。
iは浅葱に人間として生きて欲しかった。それは自分自身の手に入れたかった人生。
浅葱は月子を、狐塚を、iを失いたくなかった。 独りにならないように。

人間って、本当に寂しがりなのだ。そして、どんなに絶望のふちを見ても、人間さをなくしてしまっても、それでも人恋しいのだと。そう思う。

ミステリーとしてどうかとか、文章がどうだとかそうした書評めいたことは他のお方に任せるとして。私はこの作品が好きだ。痛いけれど、温かい。
いとおしいのだ。
子どもたちは夜と遊ぶ(上)
子どもたちは夜と遊ぶ(上)

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