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zoom RSS 『パライゾの寺』 by 坂東眞砂子

<<   作成日時 : 2007/09/11 11:07   >>

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土佐を舞台に明治維新から太平洋戦争直後までの、「歴史に名を残すことのない者たち」の物語。その中の表題作『パライゾの寺』のみを読む機会があったので実はこの本の1/7書評だったりする(笑) いずれすべて読んでみたいと思わせる作品集であることは間違いない。

パライゾ。キリスト教弾圧にあった明治維新前夜、ただ一心にひたすらキリスト教を崇め救いを求めた名も無き民衆がいた時代、パライゾつまり神の国(パラダイス)は極楽浄土に代わる救済の地であった。歌われるパライゾの歌、唱えられる主の祈り。土佐藩は回宗させるために男に娼妓をあてがい女犯を犯させ失墜させる方法に出た。 必死に欲望を殺し耐える男達。これは人間の本能と理性との戦いだ。 
今でこそ、宗教活動において疎かになろうが挫折しようが、それはもう一度やれば良いという楽観的な構えがある。しかし当時の人々にとってキリスト教の教えはあまりに情報量が少なく正確さに欠ける、さからこそ今解っている単純なキマリや戒律・・・モーゼの十戒のような最低限の「教え」を必死に守ろうとしたのだろうと思う。
一節一言が彼らにとってどれほど大切で重大であったか、想像に難くない。

しかしその男は娼妓の口から出たパライゾの歌を聞き、彼女が同胞キリスト信者だと勘違いし聖母マリアと思い込み「女犯」を犯してしまう。よく朝、事実を知り自分が女犯を犯してしまったことに衝撃を受ける男は彼女を呪うが、女はコトに及んだ時の瞬間をこそパライゾだと感じていた。犯したことを認めないことで2人はともにまた地獄の現実へと戻るが最後彼らは再び見えることになる。

私は一読して最初に思い浮かんだのが親鸞聖人の『女犯の夢告』である。
この男が親鸞の夢告を知ってか知らぬか、しかし聖母マリアとなら交わっても許されると信じたはずだ。 では一体その線引きはどこにあるのか?
少なくとも、パライゾの歌をその娼妓の口から聴き、交わってパライゾを夢見ていたその瞬間は、彼女はマリアであり彼はパライゾにいたのではないのか?
信仰とはどこにあるのか。 信じるその場所その人の心にあるのではないのか?

キリスト信者の回宗に有名な踏み絵がある。 天草四郎のようなヒーローもいる。
しかし本当の戦いは歴史に名を残したところにだけあるのではない。
宗教は人の数だけその時間だけその場所だけ、無限に増殖し消滅もする。
宗教を守り抜くということが、全てをかけて信じきるということであるなら、信じるということは何か?何をもってそれを証明するのか?

私は100%の思い込みですら、彼にとってはその瞬間は真実であると、そう信じたい。

パライゾの寺
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コメント(2件)

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空蝉さん、こんばんは(^^)。
『パライゾの寺』を読み、「ああ〜。土佐だ〜高知だ〜。」と浮かれて、記事をUPしましたが・・・すっかり自分語りになってしまい、内容が全然です・・・(笑)。
さて、私は「その時、そう感じたのだから、聖母だったのだ」でもいいのではないか。と思いました。端的な発想ですが、そうでないと(豊市もさくも)全く救われないのではないでしょうか?救われたいと豊市が思わなかったから、この物語になってしまったわけですが。
水無月・R
2007/12/17 22:10
こんばんは、お久しぶりですがお元気ですか?
『パライゾの寺』・・・もう記憶があやふや(笑)
私は特に宗教を持っていませんが書評に書いたとおり、信じきるということ=宗教者(または信者)であるということだと思います。きっと宗教って団体ではなく一人でも成り立つものなんだって。浅はかな私の意見で恐縮です;;
空蝉
2007/12/18 00:18

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