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zoom RSS 『死刑-人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う』 〜光市母子殺害事件に寄せて(2)

<<   作成日時 : 2008/04/22 12:51   >>

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折も折、今日4月22日午前。光市母子殺害事件の被告(当時18歳)に死刑判決が下された。
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/local/yamaguchi_hikari_murder/?1208825404
以下のブログは一昨日記したものだが、冷静に、出来るだけ客観的に読んでいただけることを願う。


死刑とは何か?死刑は必要なのか?なぜ存続するのか?
人の命は大事だと子供の頃から当たり前に言い習わされて私たちは育つ。悪いことはしてはいけない、人を殺してはいけない、犯罪に手を染めてはいけない・・・つまり社会的規範を逸脱する行為は禁止されるべきことであり、それを犯したものは罰せられる。これは社会的生物である人間にとってその社会で存続するための最低条件として架されている。
目には目を、歯には歯を。(これを誤解して理解しないでほしい) つまり罪を犯せばそれ相当の罰が架されるというベースにより法は成り立ち、公平に過不足無く刑が施されるために裁判がある。
裁判所が罰を決定し、最も重い罪には「死刑」の判決が下される。
では「死刑」を実行するのは、誰か? 
死刑は誰のためにあるのか? それは本当に「それ相応」なのか?
・・・死刑は、本当に必要なのか?・・・
誰もが目をそむけるこの重いテーマを、森氏は真摯に直視している。

  生命を絶つ刑罰  国家による殺人 共同体の規範を守るためのシステム
死刑の定義はそれを口にする人によりさまざまで定まらない。
死刑執行人である刑務官、教誨師(きょうかいし)、医官、裁判官、弁護人。
死刑存置派と廃止派、被害者遺族と服役中の加害者、政治家まで・・・死刑に関わった多方面にインタビューし、その切実な叫びがつづられており、やはりその意見も定まらない。
人の生死を決めるのは法=国家ではない。しかし人は法を守り国に守られ群れて・・・群衆の中で生きる生き物だ。だから頼るべき規格や制度が必要でありそのアウトラインを明確にしなくてはならない。ただ、その線引きをどうすべきなのか?それを探し続けて森氏は奔走する。
そして読者は彼の語る「死刑をめぐるロードムービー」を黙々と読み続け、自分たちの無知さを・・・あまりにもしらな過ぎた「死刑」という制度を知ることになる。
私は思い知った。死刑というものがなんなのか。それは国民という弱者のあつまり・・・集団の暗黙の了解のうちに執行される復讐であり、平和を脅かす敵への恐怖のはけ口であり、スケープゴートになっているのだということを。

人間は万能ではない。間違いも犯すし規範からズレたりもする。だからそれを正すための法が必要だし、その刑は遂行されなければ意味を成さない。
そしてその死刑は・・・刑罰とは、罪を犯したものが負うべき贖罪の代価である。
では加害者と被害者の命は平等なのか?人数の違いは、加害者の背景は、遺族の感情は、どう量りにかければいいのだろう?
罰が罪を犯したことに対する償い、つまり許しになるとしたら・・・死ぬことで本当に許されるのか?
どこまで行っても堂々巡りだ。

我々日本人は死刑という殺人を塀の向こうの・・・自分とは無関係の出来事のように他人顔をして眺めている。まるで海の向こうのテロをブラウン管を通して見ているように。
貴方は刑を実行する人間を知っているだろうか?死刑に処される人間の安らかな顔を見たことがあるだろうか?真摯に真正面から「人の死」について向き合ったことは?

今裁判制度が大きく変わりつつあるこのよい機会に
本書を手に取ったこの良縁において考えよう。
死刑とは何か? 個の代弁者・・・公=国家とは何か? 群れて暮らす人間の持つべき法とは何か?
罪と罰をどう定義すべきなのか?
我々は、何を知っているのか?

私たちはあまりに何も、知らな過ぎる。


ここまでが一昨日、この死刑判決のニュースを聞く前に書いたこと。 正直、今日の判決一例を見たことで私の本書から受けた印象なり感銘なりに変化は無い。人生も判例も人の数だけ存在し、その時その場によって変わる以上たった一例を見ただけで感情に左右されていいものではないと思うからだ。だが、第三者にとって「ただの一例」であっても、当事者にとっては大きく重い判決であり、被告本人にとっては最初で最後の刑となることもまた事実である。
昨日と変わらぬ極フツーの朝を迎えた私。その私のTVに写ったニュースで被害者遺族・本村洋さんの発した言葉が何よりも重く私の心にのしかかった。 (すべてを覚えていないのでママの文章ではないが・・・)
たしか、「死刑であれ無期懲役であれ、真摯に受け留める。」「死刑になったとしたら、そう判決させたのは自分(本村氏)なのだから、今後の自分の人生背負っていく重いものになるだろう。」といったもの。
判決は、下される側だけに降りかかるモノではないのだと、改めて考えてほしい。
被害者は、もと加害者に復習した時点で新たな加害者となるのだから。
たとえそれが法の下であれ、国家の代行した刑であれ、である。
そして多くの被害者はその覚悟を踏まえたうえで「死刑」を望むのであろう。本村氏もそのうちの一人であるはずだ。

繰り返す。私たちはあまりに何も、知らな過ぎる。

死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う
死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う

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