『大人のための怪奇掌篇』 by 倉橋由美子
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作成日時 : 2009/03/19 12:15
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1985年2月に新潮社から刊行された『倉橋由美子の怪奇掌篇』の改訂版が本書『大人のための怪奇掌篇』。
旧仮名づかいは新仮名づかいに改められ、語り口調も時代もシーンも私たちのそれとさほど変わらない。そのくせ描かれる物語はうそ臭く、妄想めいていてともすれば狂人の夢ではないかと思わせるような恐ろしさを含んでいて読者は目を離せなくなる。
私も民俗学なんぞをかじっているもんだから民話や童謡、昔話の類の研究論文を多々読んできた。
フォークロアと呼ばれるそれらには、悲劇的な事件や歴史、生き残るための先人の忠告や教訓が根底に流れており、それらは母から娘へ、先輩から後輩へと「おはなし」に変換して語り継がれてきたものだ。
おはなしには尾ひれはひれが付き、女子供の娯楽のための読み物としてよりファンタジックに、より夢のある現実離れした物語が生まれ、読みやすく進化したそれらは新しい形態をとって私たちの知る御伽噺となる。
平和化した近現代ではこれらが生まれた当時のような恐ろしい森も他民族もなく本来の教訓は意味を成さないためフォークロアは純粋な物語として存在している。
ディズニー映画に登場するキャラクターたちは本来彼らが生きたであろう時代の翳りを一片も感じさせず、容貌や背景は違えど彼らの価値観、感情の起伏はスクリーンを見つめる私たちのそれとなんら変わらない。それはそうだ、ディレクターも監督も、声優だってみな語り部ではなく「製作者」であり、彼らは今を生きる現代人なのだから。
けれどあの人気ぶり。 そして子供たちはそんな映画や、単純明快に描かれた夢膨らむ御伽噺に夢中になる。
そう、私たちはこれらの物語を生々しい事件の語りや教訓のために言い聞かされているのではない。読みたくて、楽しみたくて、物語に浸りたくて自ら進んで手に取るのだ。
だから学術的な研究をしている方々は別だが、エンターテイメント小説として存在する以上、本書のあり方は全く、正しい。
(正しい、というのもどうかとおもわれるかもしれないが、少なくとも時と場所と相手=読者に見合った在り方だ)
吸血鬼に首だけの女、幽霊屋敷に呪わしい鬼の面・・・どれをとってもありがちな、どこかで昔見聞きしたであろう、ある意味懐かしい怪奇たちが本の数ページずつの短編集に綴られる。
この一遍一遍の短さ、感情移入する間を与えない冷めた語り、ドコまでもうそ臭くインチキめいたストーリー。
これらは感情をあおる怪談咄でもなければ先のような論文でも文献でもない。
子供の頃半分バカにしつつ半分怖いもの見たさに手にとってこっそり読んだ、あの本と同じだ。
怪奇モノばかりを掲載した子供だましの廉価本。心霊写真やらオカルトチックな体験談やら幽霊スポットばかり吐いて捨てるほど掲載された、あの小さな本。オカルト本とでも言えばよいのだろうか?きっと覚えがあるに違いない。
民俗学などで童話や民話に隠された真理(とされるもの)を研究するのは、それはそれで面白い。非常に面白い。
けれどそれらは過去の発掘調査でありそこに隠された宝物を暴くロマンはあっても、新しく創造し想像するファンタジーはない。いかに新しい発想であっても行き着く先はあくまで過去、「事実」だからだ。
しかし本書にはそのファンタジーがある。ファンタジー。つまりウソと幻想が約束されたお楽しみのために存在するホラーだ。
ここに描かれるホラーはあくまでエンターテイメントであり、大人が楽しむための、そう、お楽しみのための現代版御伽噺だ。
ヴァンピールの会
革命
首の飛ぶ女
事故
獣の夢
幽霊屋敷
アポロンの首 発狂
オーグル国渡航記
鬼女の面
聖家族
生還
交換
瓶の中の恋人たち 月の都
カニバリスト夫妻
夕顔
無鬼論
カボチャ奇譚
イフリートの復讐
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