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zoom RSS 『数えずの井戸』 by 京極夏彦

<<   作成日時 : 2010/05/17 15:05   >>

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数えるということはどういうことなのだろうか?
数える、数がある。それはソレが在るということの証明だ。存在しているということが数えるものにとって「有る」つまり所有しているという「価値」になったとき、人の心に慾(欲)が生まれる。

割と有名な話だけれど、未文化の民族の数は、1、2、3、その次に4はなく「いっぱい」なのだそうだ。
より便利なもの、より良いもの、より多くのものの存在を一度知ってしまえば、人はもう知らなかった「満足」に戻ることはない。今日を知ってしまったものは昨日に帰ることはなく、満ちていないこと、持っていないことを知ってしまったら知らなかった充足の時を取り戻すことは出来ないのだ。
そう、本書の1枚欠けた皿のように。
10枚で完全であることを知ってしまったら、9枚で完結していた気付かぬ幸福に戻ることは出来ないのだ。

私が知っている、そして多くの人が覚えている怪談「番町皿屋敷」は、奉公中の娘(菊)が主人の大切にしている10枚一組の皿を割ってしまった咎で責められ、井戸に身を投げて死んでしまう。些細なことで死に追い込まれた娘の亡霊は恨みをこめて夜な夜な井戸から「一枚、二枚・・・九枚・・・あと一枚足りない・・・」と足りぬ皿を数えだす。というものだろう。
実は娘を妬んだモノが仕組んだ罠であったとか切り殺されたとか色々な切があるが、つまり下層身分の娘が主人の軽率な判断やとばっちりで殺され、抗うことも出来ぬまま命を落とす、その恨みを描いた話と言える。
現代では裁判もあれば平等という観念が(一応は)あり、ここまでの悲劇は起こりえない。しかしおそらくは、当時このような不条理がいくらでも存在したのだ。
(まあ、もちろん。今でもパワハラ、セクハラをはじめ格差社会と言う言葉が造語されたくらいだ。今も昔も差別や格差はなくならない。その被害者も無くならないのは世の常ということか。)

では本書もそのような恨みつらみ、弱者の悲劇を象徴した物語かと思いきや、まったく違った。
あくまでもこれは個人的な物語。
数えることを始めたがために、足りぬものを満たそうとしたがために、人の心を静かに狂わすほど激しい「慾」が満たされているものと満たされぬ者との間に引き起こした悲劇の物語である。

序章を除く全22章は●●数え→数えずの○○→●●数え→数えずの○○ ・・・と交互に「数える者」と「数えぬ者」の物語が交互に続く。

青山播磨は火付盗賊改役の頭まで務めた父・鉄山が急逝し家督を継ぎ、名家の娘・吉羅との縁談も進み順風な人生であるにも拘らず、生まれてこの方満足したことがない。いつも何かが「足りぬ」という欠落感を負っている。
彼の無関心に苛立ちを覚えちょっかいを出してくるのが播磨の友で部屋住の遠山主膳である。
主膳は何をするも面倒と世を厭い、怠惰という静かな狂気に病んでいる。己が決して変わらぬことを自負し、それは同時に播磨も世界も減りもしなければ増えもしないことを強要する。そして蓄積するくらいならー粉々に砕け「微塵に散ってしまうべきもの」だと切望し、その願望は青山家の家宝である皿へと向けられる。
この播磨という男はハッキリ言って、狂っている…というかはた目から見るといわゆる「乱心」したバカ殿だ。
が、彼の破壊願望、満ち足りぬことへの嫌悪は、数えることを覚えた人間特有の恐怖なのかもしれない。

主膳は変化をきっと恐れている。
数えること、それは満ち欠けするということ、足りぬことを知ってしまうこと、己が満たされていないという惨めさや「彼よりも劣っている」「満ちていない」という己を知ってしまうということ。彼も人も、無欲な菊を除いてだれもがそれを本能的に恐れている。恐れているからこそ、主膳はそれを破壊せずにはいられなかった。
そして、悲劇が起きた。

この物語に登場するのは青山播磨という気真面目で無関心でいつも満たされていない空っぽの殿様と。
彼に興味を抱かせ自分のモノに数えようと躍起になる良家の姫様と。
褒められることに異常な執着を抱く播磨の御側用人・十太夫と。
数えることが苦手で空ばかり眺めている無欲な娘・菊と、なにやら訳ありの義理の母・静と。
彼らの周りで欲や嫉妬、興味や愛情、様々な思いで見守る人々と。
そして、己が満たされていないことを知らしめる、それら全てを憎悪する・・・いや、恐怖する遠山主膳という男。

たかだかそれだけの人物で構成される、非常に小さな規模の話である。

本来なら繋がらることのないはずの彼らの縁を繋ぎ、このような悲劇を巻き起こした鍵は、やはりたったひと組の皿。播磨が吉羅を娶る条件となる、十枚一組で「足りる」ことになる、しかし探しても見つからぬ青山家の家宝である。
皿は隠されたのか、誰が損なったのか、菊ははめられたのか、誰が誰を憎み、愛したのか。
   菊は、井戸の底から何を思っているのか?

従来の怪談・皿屋敷で焦点の当たるそのような問題は、本作にはまったくもって意味を成さない。
ただひたすら。 ここには生の人間が生きていて、生々しい慾と、満たされることへの悲願が描かれている。

人は数えるということを覚えたときから、比べるということ、価値ということ、優劣ということを知ってしまった。
彼らの周りと同じく、いやこのモノで溢れかえった現代では一層多くの「数」がこの世に存在している。

数を数えているのは私なのか? 数を支配しているのは私なのだろうか?
束縛されているのは、数を数える私自身なのではないだろうか?

本当に怖い怪談というのは、私自身を写している等身大の物語である。


数えずの井戸
中央公論新社
京極 夏彦

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『数えずの井戸』/京極夏彦 ◎
は〜、今回もぶ厚かったですなぁ、京極夏彦さん(笑)。 本書『数えずの井戸』は、京極版「皿屋敷」である。 まず番町・青山家に関してどんな噂が流れたかが語られ、そして実際の惨事の結果だけが語られ、序章となる。 本編は、青山家で起きた惨事の関係者たちの性質とそれに関わる物語が、延々と語られていく。次第に歪みを増していく、彼らの事情と性質。読んでて非常に落ち着かない気持ちになりました。 あ〜、それと・・・、長かった〜(笑)。結末の事実だけは分かってるけど、結局どうだったのよ?というのが・・... ...続きを見る
蒼のほとりで書に溺れ。
2011/02/25 13:32

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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
空蝉さん、こんにちは(^^)。
『皿屋敷』を、こんな一面を持った事件として解釈するんだから、京極さんというのは怖ろしい作家さんですよね(笑)。
小さな狂気が、お互い響き合ってしまい、起こってしまった怖ろしい物語だ・・・と思いました。
『巷説百物語』のあの人たちも出てきましたが、彼らも後味の悪いやるせない思いをしたことでしょうね。
水無月・R
2011/02/25 13:45

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