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zoom RSS 『私が語りはじめた彼は』 by三浦しをん

<<   作成日時 : 2011/08/24 14:42   >>

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本作を読んでいて最初に感じたこと、それは三浦しをんがこれほど繊細で情緒豊かな風景描写が出来る作家であったのか、ということだ。
それまでの三浦像といえば少しオタクっけのある、シリアスと笑いをうまく取り混ぜたエンタメ系、といったものだったが、本作は著者の作家像を大きく変えるものとなるだろう。

女性関係に奔放な村上教授を中心に、彼の妻、娘、息子、学生、浮気相手、不倫相手とその家族たちが少しずつ「発狂」しながら。心のバランスを崩しながら必死に何かを求め続けた、いっそ刹那的な群像劇。
こうした作品はその心情をやたらめったら昼ドラよろしくえげつない言葉でうめつくすか、難解で理解不能な心象を羅列するかになりがちだが、著者の文体はどちらでもなく、単純でありながら美しい。

実は最初は繊細で流れるように美しい風景描写に比べ、単純で分かりやすい主人公たちの感情表現に戸惑いすら感じた。もう少し複雑で比喩的表現でかぶせてもいいのではないか?と。
が、読み終えて思う。
人間は単純で傷つきやすく壊れやすく、しかし常に変わり続けるたくましい生き物なのだ。
言葉にもできる単純な感情がいくつも重なり合ってようやくそこに安住する、                                                          

さて。物語としては村上教授に翻弄された男女と子供たちの物語という設定ではあるが、実際はどうだ。
彼らを悩み苦しめるのは浮気でも家庭崩壊でもない、自分たち自身の歪みに、欠落部分に気がついてしまった戸惑いである。彼らの「裏切り」はきっかけでしかない。
円満な家庭、愛し合っている恋人、仲のよい両親もしくは夫婦。
そう信じ、そうであると思い込んできた平和な日常と強く結ばれているはずの絆や、愛と信頼という土台は・・・たった一人の男の浮気という「裏切り」によって崩れ去る。
いや、もともと破綻していた現実に気がつかずにいた「私」たちが気がついた瞬間なのかもしれない。

村上の妻の言葉を借りれば、事実は一つ、真実は人の数だけ。
とすれば愛人の、家族の、「私」の数だけ存在するということだろう。

本作中。
けして自らの「真実」を語ることすら許されなかった男:村上の「事実」を知らされ、
彼を語る「私」たちはおのおのの真実を、ある物は捨て、ある物は再構築し、ある物は新しく生み出していく。


恋は盲目なんて言うけれども、恋が愛に変わろうと、永遠に変わらない愛や平穏を求め続けてしまう卑猥な人間がいる。間接的にしか描かれていない、本書の中、彼らの物語の中で一言も心情を漏らすことを許されなかった、誰にも理解をされ得なかった村上という男は、まさにそういう男として描かれている。

「私が語りはじめた」彼、村山はとうとう「私」を語りだすことが出来なかった。
永遠に変わることの無い物などないこの世界で、永遠を求め続けたのであろう哀れな男。
彼の葬式をもって最終章は幕を閉じる。
第一章に登場した生徒や妻、その娘たちが再登場し少しずつ繋がっていた群像劇がようやく終焉をむかえるその中心で、村上の死に顔がどのような物であったのか、ついに語られることは無い。

彼の死に顔は幸せであったのか?はたまた不幸せであったのか。

それは「私」たちのかずだけ存在する印象となるのだろう。




私が語りはじめた彼は
新潮社
三浦 しをん

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