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zoom RSS 巡礼 再生『永遠の仔』 by 天童荒太

<<   作成日時 : 2005/07/19 19:54   >>

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聖地巡礼の中に、山に登るというものがある。高野聖といい、修験者といい、山の頂上に何かを求め、その頂点に救いを見るからである。日本に古来から根付いている山岳信仰はかの阿弥陀来迎図にも見られるように、仏教と混ざり高まり一つの大きな理想郷・神・救いの座を位置づけた。
この『永遠の仔』でもしかり。霊峰の頂上を目指したこの仔たちは、まさにこの山の頂に救いを求めたのであり、自分の穢れた身を浄化してくれることを願い旅にでたのだ。これが巡礼といわずして何と言おうか。
彼らはいわゆるアダルトチルドレン、両親に暴行を受けたり虐待を受けたり、精神的損傷を被った子供である。 家族、人との間が希薄となり、救いの無い現代の落とし子であるとすれば、彼らが何かにすがるように救いを見出したのは、苦境の中で宗教に身をゆだねる人間の性がそのまま浮き彫りになっているといえよう。 人間は弱い。そして何かに頼らずにはいられない。それが宗教であったりお金であったり人であったりものであったり・・・ 罪を感じ自分を穢れたものと認識したとき、人は絶望しあえぎ同類を求める。救いをただ求める。 
この仔らは同類である。お互い自分が穢れ罪を背負っていると思い、世界を両親を憎んだ。
救われると信じて山に登った。その霧の中で行われた父の殺人は自分たちが救われ再生するための唯一つの道・儀式なのだと信じて行ったことに他ならない。 オレが助けてやる。救ってやる。 同類を救うために罪を被ることを厭わない彼ら。―人は救いを求めて罪を重ねる―
さきに巡礼とはその行程にこそ意味があり、同行者と一体化し目的地に赴くことが重要なのだといったが、彼らもまたお互いが世界のすべてであり自分に出来る精一杯の生だったのである。
山に登る 巡礼する 罪を背負って魂の浄化を願って、再生を願って人は巡礼するのだ。
「異人殺し」の例でも挙げたように、再生は神殺しによって行われる。同じように魂の再生もまた、魂の殺害によって行われようとした、それがこの真相であると私は思う。
親殺しという罪を背負って、なおもこの3人は生き延びた。それが再生だと信じたからだ。
巡礼における 殺害 再生 ― 人は無意識のうちに深く根付いた本能に生きる。
殺しが生。なんと皮肉なことだろう。 しかもそれは誰も救うことはなかったのだから。
仔=梁平は最後にもう一度かの山に登山する。罪を背負って、赦し赦される弔いの巡礼だ。
そして最後の言葉が、彼らに再生を決定付ける。―「生きていていいんだよ」―
 ここは感想文ではないのでこれ以上の「本」にたいしての詳細は省くが、この作品は私に大きな感動を与えたものであるのは間違いない。 是非読んで欲しい。

永遠の仔〈上〉
永遠の仔〈上〉

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