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zoom RSS 巡礼 『火車』 by 宮部みゆき

<<   作成日時 : 2005/08/01 23:41   >>

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ものすごく今更、なのだが『火車』を読了。正直、キャラクターの魅力や引き込まれるような勢いが感じられるという作品ではなかった。しかし強く後を引く、というより引き摺られる作品だ。
カードローンと借金地獄、不幸続きな人生、孤独な年月。すべての「火の車」から飛び降りてあるべきはずの自分になりたかった一人の女性(A)。彼女は同類の女(B)=今の自分を殺して他人になりきることで新たな人生を歩みだそうとし、姿をくらまし、彷徨する。しかし結局なりきれなかった。逃げ場は何処にもないのだとはっきり告げられた終結。 
Aの過去の生き様を、現在を、そしてこれからの道を探し後を追う主人公の視点で書かれてはいるが、この物語は一貫してAの、そしてその分身とも言うべきBの歩んできたみちを追い、背負ってきたものを見つめる巡礼そのものである。AもBも、ただ幸せになりたくて、現状から(今までの言い方で言えば現世から)逃げたくて、この人生を嘘のものだと、本当の自分は「こうあるべきだ」という理想を追い求めてひた走る。火車から降りたつもりが、結局いっそう勢いのついた火の車に乗ったのだ。人は誰にもなれない。自分は自分自身にしか、なれはしないのだと。
Aは殺した人間(B)の、また殺そうとした人間の過去の思い出の地に赴き、人と会い、触れることでその人生をなぞり巡礼していく。 Aの赴いた地は巡礼者が立ち寄る点々の地。 彼女は彼女らの人生を背負い、また己の罪を背負い、巡礼しているのだ。
一見、Aは他人になろうとして奔走しているとも取れる。それならば彼女は巡礼、すなわち戻ってくることを願ってはいないといえる。しかしAは、他人に成り代わろうとしたのではないと、思う。
彼女は「幸せになりたかっただけ」なのであり、それは他人になってしまいたかったのではなく『あるべき自分の姿』に戻りたかったということだ。こんなはずではない、これは自分ではない。
途中蛇の脱皮の話しがでてくる。蛇は「こんどこそ足が生えてより良くなる」と信じて脱皮するのだと。今度こそ、「真の自分」に、素晴らしい人生が送れるのだと。そう信じて何度も。何度も。
Aはきっと何度でも繰り返す。今度こそ本当の自分になれるのだとそう信じて。
殺したBは自分と同じ境遇にいた。BはAの鏡、『なり損ねた自分』であった。そう信じた。
Aは(熊野のフダラク渡航、往生を願って逝ってしまうようなものではなく)本物の自分に再生するため繰り返すのである。殺人を。すりかわるという「変身」を。
人間は現状に満足してもしくは諦念して全うしようとするものと、失望して途中に果てるものと、否定して「あるべき形」で再生しようとするものがいる。Aは再生希望者いや、信者である。
どういきるのが一番良いのか、答えはない。しかし巡礼というシステムが、古代に発生し今に残るほどの異様なまでの存在感を持つのは人間に生きていきたいという本能的な願望があり、再生願望が潜んでいるということである。再生、それは巡礼の最終目的でもあり、新しい人生を歩むともとれる。
しかし人の人生に「新しい」ことはない。再生しようがどんな大事件があろうが、人生は一度きりなのである。再生とは春夏秋冬、1年がたちまた春が来るのと同じように、一つのターン、区切り、脱皮ではあるかもしれない。しかし一皮向けたところでその中身はすべて自分自身である。
脱皮した時、中身がない、空っぽになってしまった時、その人の人生は終わりなのだから。

火車
火車 (新潮文庫)

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2001年5月6日 宮部みゆき『火車』再読
今なお親交の深い新聞記者のS氏から宮部みゆきの「火車」をどう思うかと問われた。 ...続きを見る
日記風雑読書きなぐり
2005/08/02 16:58

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