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zoom RSS 「世界の中心で、愛をさけぶ」 by 片山恭一

<<   作成日時 : 2005/09/30 02:00   >>

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昨日、久しぶりに「世界の中心で〜」映画を見た。実のこというとこれを最初に原作で読んだ時、帯の言葉に惹かれて読んだのだが期待はずれだった。というか、期待しすぎて拍子抜けしたという感じだ。美しく純愛の物語だ。登場する誰もがアキのことを思い、誰もが愛のために生きている。
そして何よりサクのアキに対する態度、アキの死への向き合い方があまりに懸命過ぎて素直すぎて、感情移入できない。第一、今時の少年少女があんなあからさまに一緒に登下校したり、お付き合いするか?と不自然ささえ感じていた。 最初のうちは。
それがしかし、映画をみて本を読み返して、自分なりに表面的なSTORYではなく彼らの感情、心の動きや変化に焦点をあてて自分なりに解釈していくと、これは非情に大きなドラマになっていくのだ。
まず私が好きなのは祖父の話。本文中にある言葉・・・
『逆の場合を考えることにしたんだ。もしわしの方が先に死んでいたらどうだったろうかってね。
そうなっていたら、あの人は今わしが感じているような悲しみを、わしの死にたいしてやっぱり感じなくてはならなかっただろう。』
そして映画の中でもあった台詞、「天国は生きている人間がこしらえたもの」(だったかな?)
愛する人の死は悲しい。苦しい。時に耐えられないものであろうが、それでもその人のために残された者は生きることが出来る。彼女を想い、彼女のために「天国」を作り、彼女が確かにこの世に存在していたことを証明するという、愛のさけびが続いている。
世界の中心はどこか? それはアボリジニーのかの地かもしれない、愛する人が存在したその時と場所なのかもしれない。けれど私は、世界の中心はいつでも自分一人一人なのだと思う。人間の数だけ世界の中心は存在する。そしてもう一つの世界の中心、「その人」愛する人の世界の中心に向けて愛を叫ぶ。愛は同じ場所で一人でつぶやく物ではない、相手に、もう一つの世界の中心に、叫び続けることなんだと、そう思った。
繰り返すようだが、死後の世界、天国も地獄も、幽霊も、生きている人間のためにあるものなのだ。信心深い方々のいわゆる「死後の世界」を否定するつもりはないが、私は、残された今生きている人間が、死んだ「かの人」を思い、冥福・幸せを願って作られた世界があちらの世界だと思う。

ストーリーの中盤まで・・・アキが死ぬまでの回想シーンは、映画のほうが私は好きだ。ただラストは原作のほうが何倍もすきなのだ。映画ではサクがアボリジニーのかの地で散骨して終わるが、原作はまず両親がかの地で散骨し、サクはその約束を守らずに守れずに一握りの骨粉を持帰ってしまう。ふつうそうじゃないか?どんな約束だろうと、本人の希望だろうと、私なら骨は撒けない・・・きっと、同じことをするのではないか。
さらになぜ原作が好きかといえば、その後サクは新しい恋人と新しい人生を歩み始めるため、桜吹雪の中、思い出の地(中学や寺)を回った後に風に乗せて散骨する。
彼の時間は、アキが死んで灰になり彼女を失った時点で時が止まったままなのだ。骨が巻かれても、同級生に会っても、サクの時間は止まったまま動かない。
それでも数年後、サクはようやく骨を巻くことが出来る。ここに時間が動き出した。
こう見るのは私の独りよがりだろうか?
人それぞれ解釈があるので私はこう思う、というだけだが。私はこれが気にいっているのだ。

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