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zoom RSS 生きているということ、その意味

<<   作成日時 : 2006/01/27 03:11   >>

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私の書評の先輩の書かれた文章に触発されて、少しだけ人生云々について語ってみる。

■まず、生きることの意味について。
谷川俊太郎の詩「生きる」は某ドラマでもお馴染みになったので、いまや知らない人は少ないだろう。
私がこの詩に出会ったのは中学生の頃だともう。(出会いは高校受験の過去問だった;;)
「生きているということ」で始まるこの詩は、「生」とは何のためにあるのか、人はいったいなんなのか?存在意義を見出し感動した、それをしにあらわしたものではないかと思う。
意味がなければ生ではない、という見方をしてしまうとそれは私の意に反する。
けれど、この作品にはそうした見方を、私はしない。なぜか。
  この詩「生きる」において、すべてが今=being、現在進行形の物語だからである。
  今、自分がどうであるか(状態)、周りには何が取り巻いているのか、
  自分に何が出来るのか、今何が起こっているのか、そして最後に
  人は、生物は、何をし続けているのか、ということだ。
「生きているということ〜/人は愛するということ/あなたの手のぬくみ/いのちということ」
人は愛するものなのだ、ということが、あらゆるものに優先して存在している。
これは「人が誰かを愛する時、生きているといえる」というのでは、きっと、ない。
人は常に何かを愛し、誰かを愛し、生きて生き続けているのだということだと、私は思う。
もちろんそれは、異性であったり親であったり子であったり、自分自身であったりするかもしれない。気がついていないかもしれない。いわゆる「愛」とは違う、愛してはいないものなのかもしれない。
それでも人は何かを愛せずにはいられないのだと、私は信じる。

少し話が飛躍してしまった。

私が常日頃、思っていることは。
 何か意味があるから生きるのではないということ。
    意味を求めて生きているのでもないということ。
       生きることに意味があるというのでも、やはりない。
生きてみて、初めて意味が出来るのだと、思うのだ。
生きたことの意味云々を求めてしまうのは人間の弱さだろう。
自分の人生、浪費した時間を肯定したがる(してもらいたがる)のは、人間の弱さだ。
だけれども。私はきっと自己愛主義者だから、こう、考えている。
生きることは、生きている(生きてきた)という意味を、それ単独それ自体で果たしている。
生きるということ、それはそれひとつで何にも買えがたい生という意味なのだと、そう思う。

最後に、このようなことをちょっと再確認できる場を与えてくださった
先輩に感謝です。有難うございました。

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